今日は阪神淡路大震災から24年目に当たる日だった。朝からテレビがしめやかな感じだったのは、追悼の意というのを表していたようだ。
1995年1月17日。私は最初の勤め先で、最初から開発に関わった初めてのマシンの出荷が迫る、忙しい時期たっだ。当時は部屋にテレビも電話も付いていない女子寮の二人部屋で暮らしていて、震災のことも会社に着くまで気がつかなかった。
朝の6時過ぎに寮を出て、いつお通り肉まんを頬張りながら駅へ。いつも通り電車を乗り継いで会社へ着いたらまっすぐ社員食堂へ。ゆったりとモーニングを食べて、ぼんやりと自席に向かう。オフィスでは珍しくテレビがついていて、普段ならたばこ部屋にいるオジサン達が腕組みしながら画面を見つめていた。
なんだかよくわからないうちに開発チームが呼ばれ、主任から朝の状況が告げられた。 どんな言葉だったのかは覚えていないのだけれど、キーーーンという耳鳴りがして、暫く何も考えられなくなったことだけは記憶している。
一番ショックだったのは、担当していたマシンの開発拠点が神戸にあって、まさに被災地域で、現地で開発に当たっている人の安否が分かっていないということだった。
まだまだ新人で、開発担当とはいえ女子社員で、あの震災の時には何もできなかったのが悔しかった。
幸いにも、現地の社員は全員無事で、彼らの家族も無事だった。顔も知らない誰かのことを、鼻血が出るほど心配したのは初めてだった。
あのあと、どんな風に定常業務に戻っていったのか。恐ろしいほど覚えていない。
現地に派遣してもらえない悔しさだけが、今でも不意に甦る。
そんな、忘れたくても忘れてはいけない日の朝、追悼式の中継画面に割り込んできたのが口永良部島噴火のニュースだった。
全く非科学的なのだけれど、この日付に何か意味があるのではないか?と勘ぐってしまうくらい、地面に関わる災害が重なった日に思える。
天気は相当正確に予想できるようになったけれど、地震や火山はまだまだ難しいのだろう。科学技術の進歩のために、私に出来ることは何かないだろうか?もどかしい。